三 雪景色

 

  

橘家の屋敷が位置する地帯は昔から桃源郷だとされていた。特に真冬にどこからもなく流れ落ちる雪は京よりも美しいとされ、天下一品だ。

 

今朝起きると、庭は風貌を一変し、汚れのない雪と、黒よりも暗い岩石との見事な対比になっていた。

ふかふかと、綿のような(綿よりは重いけれど)、一尺ほどに積もったこの天からの贈り物を思わず足跡をつけてみたい、というのが人間の性分だ。

 

着付けを済ますと(侍女が来たのだが、さまざまな理由をつけて部屋から追い出した)、氷のように冷たい渡殿(廊下)を通り、まだ日の出の薄暗い時間ながら、愈は釣殿へと向かう。池に一番近いからだ。

 

屏風と御簾しかない神殿造りは夏こそ風通りがよく、涼しいが、いざ吹雪の冬となると、身体の芯まで凍えるような寒さに見舞われる。

しかし、ちょうどこの季節、一月(旧暦)に生まれたこともあって、愈にとってはよほどの寒さではないと応えない。現に、唐衣と裳はつけていなくとも、少し暑く感じたりする。

本当は(うちき)を着るのも乗り気ではなかったが、母の言いつけで、外で待ち伏せていた侍女がどうしても見逃してくれなかった。唐衣を押し付けられたときは、正直冷や汗が背中を伝ったのだが、諦めてくれたようだ。

ついでに言うと、唐の国で、日本の唐衣を見たことはなかった。民間にいたので当然のことだと愈はもちろん分かっていたが、どうしても愚痴をこぼしたくなるほど、愈はそのような衣装がきらいだということだ。

 

そして侍女と言えば、だ。自分自身の年より大きくても、小さくても困る。同い年ならもっと困る。元々橘の家は定則の位が高い方だが、京から離れたところに務めていることもあって、『侍女』という言葉自体にも慣れてない。

ところが突然、昨夜、母から、「こちらが、今日からあなたに仕える者です。」と紹介されても愈ができるのはただ呆れることだけだ。

そんな一生、烈女で在り続けた母にはもちろん、侍女、なんて人は一人もいなかった。一人も母の侍女に似合う人がいなかったのも理由の一つだ。それほど母は人を寄せ付けない孤高なふいんきが漂っていた。女房なのも、また一つの原因だが。

 

そこで『侍女』が挨拶しに来た。

一人目は身の回りの世話をする愈の中の『侍女』よりも、八年間で忘れてしまった教養(愈としては、忘れていない)を取り戻す、しつけ役というところだ。菊里と言う、厳粛な顔立ちだった。

二人目は、これまた『侍女』とは違って、妹として可愛がるような、女の子だった。十を過ぎたか過ぎないくらいの年齢。小声で、杏です、と名乗った。名前どおりのような娘だ。

 

性質が正反対ともいえるこの二人の『侍女』らしきしつけ係と妹に追われ、愈は脱兎の如く、ここ、釣殿に逃げてきたのである。

 

「早朝から何をしていらっしゃるのですか?愈様は」

忽然と後ろから声をかけられ、愈は矢の的になった兔のように硬直した。

いつもなら、後ろをついてくる足音など、長年の鍛錬ですぐに分かるのに、今朝は考え事に浸りすぎたのか、夜よく眠れなかったのか、それともこの晩冬の寒さに感覚が鈍ってしまったのか

とにかく愈は、あぁ、捕まっちゃった、と息を漏らした。

 

この厳かな声はきっとあのしつけ係の菊里さんだろう。その隣で、「愈さまぁ、愈さまぁ!」と幼さを残す声で息を切らしているのは杏なのだろうか。昨日より遥かに声が元気なのは多分気のせいではないと決める。

 

振り向くのが心なしか怖くて、愈はしばらく直立して動かなかった。

この時、愈は確信した。今後いかなる敵が現れたとしても、一番恐怖なのは絶対にこのしつけ役だと。

「何を固まっておるのですか。今日は笹原様の屋敷にご挨拶に行くのですよ。牛車はもう配備できております。すぐに着替えてくださいませ。」

あ~、忘れかけてた。橘家と長く親しくしている笹原家に挨拶をするのだ。そうかそうか。笹原家の娘、琴遥(こはる)とは幼馴染で親友とも言える存在なのに、だ。八年前、兄以外に家出(?) のことを告げた数少ない一人でもあるのに 実は昨日、愈自身が提案したことなのに、次の日には忘れてるという鈍感さに愈は自分のことながら、腰が抜けた。

 

「この衣服を着替えることになるよね?」

さっき言われたことをオウム返しにする。

「愈様。もっと淑女たる言動を身に着けて欲しいものです。質問に対しては、もちろんです。」

何が『淑女たるべき言動』なのか、基準が欲しい。口に出すのは控えたが、心中、悪態をつく。

「ならば今の着物が汚れてもかまわないから近道を通ります。」

なにか逆らうと後が怖いので、口調だけは敬語にした。

 

そのまま空に浮かぶ雲が地面に降りてきたと思ってしまっても不思議ではないほどの雪を愈は迷いなく踏んだ。サクッと心地よい音に続いて、自然と背筋を正してしまうような冷たさが足袋の中に侵入し、そのまま全身に伝わる。

やはり新雪はここがいい。職人技の墨色の瓦をも、その後ろに所狭しとこちらへと葉を向ける翡翠の竹にも、雪が洗い落とし、全てを純白に清めてくれる。愈の流れるような黒の髪にも、着物にも、全てを自分の色に染め上げる。

 

「ああ!なんてことを!」と大げさに驚き、菊里と杏が愈を引っ張っていく。

 

挨拶に行くだけのことだから、着物くらい自分で選ばせろと何回も愈が願った末(これで約半時、時間を無駄にした)、愈は瞳を縁取る紺と同じ色の袴と、僅かに色づいた蒼と紫の単に袿、外には昨日夜中に選んだ雪より和やかな白に梅の花の唐衣を羽織った。

 

こんな日くらいゆっくりしなければ、と愈は自分に言い聞かせる。こんな雪景色の日にゆっくりしなかったら、せっかくの天からの贈り物に悪い。

 

まだ子供のため、袿までしか着てない杏と落ち着いた色合いの菊里を慕え(慕えられの間違いの可能性が高い)、愈は牛車に乗り込む。

雪は全てを自分の色にする。一つ以外は。それは人間の、何かをやり遂げようとする瞳。愈の、濃紺に縁取られた薄い墨色の瞳。それだけは、潔白な雪でも染められない。

 

 

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